笑うことができない幼少時代

笑うことができない幼少時代

わたしのリアルなものがたり

2022/1/11

わたしは笑うことが嫌いだった。幼い頃の写真を見返すと真顔が多く、笑顔の写真が少ない。そもそも写真を撮られることが好きではなかった。「笑って」とか「笑ったら可愛いのに」とか、言われ続けた幼稚園、小学生時代。ただただ苦痛でしかなかったんだよね。

なんでなんだろう。
なんで笑わないといけないんだろう。

「笑う」という感情だけが抜けてしまっていたんだ。今ならその理由が分かる。愛情不足だった。

産まれた日

わたしが産まれたのは、冬の日だった。沖縄県那覇市の小さな産婦人科。第一子ということもあり、家族親戚一同がわたしに会いに来てくれた。
母は、わたしのために慣れない手つきで手編みのピンク色のベビー服を編んでくれていた。後々、その毛糸がわたしの肌に合わなくてかぶれてしまうのだが、その気持ちが嬉しかった。
家族ひとりひとりが生れたてのわたしを抱っこしている写真。優しい目。特に覚えているのは、おじぃとわたしの写真。初めてこの写真を見せてもらった時、この人わたしに微笑むことができたのかって、少し感動したんだ。この話しは長くなるから、また今度話すよ。

弟の誕生

しかし、幸せだったのは物心つく前で終わった。わたしが2歳のころ弟が産まれたのだ。待望の長男の誕生ということもあり、チヤホヤされていただろう。
当時のわたしたち兄弟は、親戚の家によく預けられていた。車で30分程離れた母の妹のところだ。アパートの3階だったと思う。弟は生まれたばかりでまだ歩けないため、おばぁに抱っこされているのだが、わたしは歩いて登らされる。まだ2歳だよ?

「抱っこ~抱っこ~」って、大声で毎回泣いていたらしい。当時は携帯もないので、着いたと連絡することもできなかった。叔母が言うには、わたしの泣き声が聞こえたら飛んで抱き抱えに来てくれたらしい。叔母曰く「あの頃のうーなは見てて本当にかわいそうだった」そうだ。

お父さんとお母さんは、って?
当時の父も母も仕事人間だったのか、家で一緒に過ごした思い出があまりない。
だから、わたしの幼少の頃の記憶に父と母がいないのだ。一緒に住んでいたはずなのに。

あの頃、わたしたち兄弟を育ててくれたのは、おばぁと叔母さんと言っても過言ではない。しかし、叔母さんにも子どもがいたし、誰にも甘えることができなかった。
ことあるごとに言われ続けた「ネーネー(お姉ちゃん)でしょ!頑張って」という言葉が、我慢を覚えた。泣いても誰もきてくれない。でも泣くことしか知らない。1日中泣いて泣き止まないこともあった。あの頃のわたしは、甘え方を知らない。だって誰も教えてくれなかったから。
もし、あの頃のわたしに会えるなら、「わがまま言ってもいいんだよ」って、抱き締めてあげたい。そしたら少しでもひねくれることなく育ったかもしれないって思うんだ。

そんな愛情を充分に受けることができなかった幼少期のわたしにも、大好きな友達がいた。うさぎのぬいぐるみ【うささん】。産まれた時から一緒だった。次回はそんなうささんを交えたものがたり。

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